過ぎとは?/ ノーローン
[ 197] 過ぎ去ろうとしない過去
[引用サイト] http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/
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100年前にしてはリベラルですねすごいなあじゃない。むしろネオリベが跋扈する今だからこそ、アクチュアルな問題として全然読めてしまう。 昔の文献を読んで、ああこれ今とそっくりだなあということはよくあるけども、固有名を入れ替えただけでロジックからレトリックまで含めてそっくりそのまま今でもいけるんじゃねと思わせるような文章は少ない。 「古きよき」自由主義者の洗練されたレトリックと、「小国主義」のようなラディカルな視点が融合して、かなりクリティカルな社会批判になっていると思う。 たとえば、「素朴な反国民国家的世界市民主義ってネオリベを利するだけだから批判したいけど、かといってナショナリズムぽくなるのも嫌だし、俺リベラルだからリベラルっぽい批判したいなあ」ってときあるじゃない。 近頃私はしばしば文芸家とか哲学者とかいう側の人から、我々は国民として生きる前に個人として生きたいとか、あるいは、我々は国民として存在する以上に(もしくは共に)人類として存在するとかいう種類の言葉をきく。 人が国家を形作り国民として団結するのは、人類として、個人として、人間として生きるためである。決して国民として生きるためでも何でもない。宗教や文芸、あに独り人を人として生かしむるものであろう。人の形づくり、人の一切が、人を人として生かしむることを唯一の目的とせるものである。 されば「国民として生きる前に人として生きねばならぬ」という言葉は、私の意味を以てすれば、「国民として生きる前」ばかりでなく、「宗教の中に生きる前」「文芸の中に生きる前」「哲学の中に生きる前」に人は人として生きねばならぬのである。否、生きざるを得ないのである。何となれば、国家も、宗教も、哲学も、文芸も、その他一切の人間の活動も、皆ただ人が人として生きるためにのみ存在するものであるから、もしこれらの或るものが、この目的に反するならば、我々はそれを変改せねばならぬからである。 つまり「人は人として生きねばならぬ」ことを前提にして、それがゆえに国家の問題や社会の問題に関わっていかなければいけないと説く。今でも、リベラルとしての模範解答ではないだろうか。 しかるに右の教育について、また我が国人は非難を浴せる。支那が、その国民教育において、排外思想、殊に排日思想を鼓吹するが不都合だというんである。満鉄付属の東亜経済調査局が近頃発表せる『支那国定排日読本』なる調査によるに、なるほど支那教科書の排日記事は、随分露骨で、また多数である。しかしこれも支那の今日の立場から考えれば、一概に非難し難い。前にもちょっと触れたる如く、支那は今日何事を差し置いても、国民の愛国心を鼓舞し、国家の統一を図らねばならぬ時期にある。これはあたかも我が国が、明治維新の大業を完成するために、国民の間に極端なる国家主義を鼓吹する必要のあったと同様だ。而して今日支那が、国民の間に国家主義を鼓吹するには、いかなる教育者が考えたとて、支那が清朝末期以来、諸外国に圧迫せられ、国力の衰微するに至った歴史を以てする以上に、有力なる教材を発見することは困難であろう。それは例えば我が国の小学校教科書に、日清戦争や日露戦争の記事の多きと比すべきもの。ただ不幸にして支那には近年外国と事を構えて、敗退の歴史のみあって、光栄ある勝利の記録がないからにして、自然その記事が悲憤慷慨的なるはやむをえない。記者は敢えて支那を弁護するではないが、自ら省みて、彼の立場に同情せざるを得ない。 しかもそれらの支那教科書のいわゆる排日記事が、或る人々の説く如く、全く虚構の事実に拠れるやというに、なるほど事を若干過大に取り扱える節は往々認められる。しかしさすがにいずれも新しい歴史の事実であるだけに、全然虚偽と見なされるべきものはない。のみならず彼はまた善く自国の欠点も認め、過去の政治の誤りを説いている。仔細にそれらを読めば、彼らのいわゆる排外排日記事が、単なる排外排日を目的とせるものにあらざることが解せられる。 つまり、食肉業者が差別されているとして、差別する側には二つのタイプがあるということだ。一つ目は、本当に食肉業やその他の属性を蔑視しているタイプで、もう一つは「私自身は食肉業者に対して蔑視感情は持っていないけれども、このような社会情勢あるいは彼ら自身の事情を考慮すれば、差別されても仕方が無い」として、直接の差別はしないまでもその差別が起こりうる状況を様々な形で結果的にサポートする。たとえば1930年代のドイツ人は皆が皆コテコテの反ユダヤ主義者では無かったけれども、主には後者の自己弁護によってナチス勢力の伸張を許し、ホロコーストだって実は多くの人が知っていたのだけれども、それは仕方が無いことだとして沈黙し、あるいは直接的・間接的に荷担した。 それはともかく、食肉業者のみならず、食肉産業全体を見れば、我々先進国の人間が食べている廉価な牛肉生産は、実は途上国の人々を搾取することによって成立しているということは最早常識である。もはや殺すものと食べるものの分離だけでなく、飼料を生産するもの、牛を生産するもの、牛を殺すもの、牛を調理するもの、牛を食べるもの、そしてこの一連の流れをお膳立てするものがいる。これらの過程全てが、圧倒的に暴力的なシステムとして成立している。牛を殺すものと牛を食べるものの関係に着目することはもちろん無意味ではない。しかし、その関係だけに着目して議論し、何らかの世の中の不条理を見出して納得する、という行程を取ろうとするなら、それは全然足りていないと言わざるを得ない。牛を殺すものは食べるものにとって単に「私のために殺生してくれた人」なのではない。屠殺という行為にある種の罪悪性を見出すかどうかは価値判断の問題だが、そうした問題に関係なく、我々が牛肉の生産消費システムの一部にある以上、我々が彼らに屠殺をさせているのだ。この観点から言えば、「私のために殺生してくれた人」と言うことでさえ欺瞞となり得る。政治的・社会的諸関係を一切排除して我々は彼らをまなざすということである。それを我々は「弔い」と呼ぶのではなかったか。 弔いの行為はすでに逃げ出すときから、イリヤを取り巻く現実を知ったときから始まっていた。逃げ出したとき、すでに浅羽の中で、イリヤは死んでいた。浅羽にとっては、あとはどうやってイリヤを忘れるかだ。 浅羽にとってイリヤとの恋は、自己完結の物語。それは既に死んだ相手と紡ぐ物語。弔いの物語だった。 たとえば靖国の問題である。まさに特攻隊員を死に追いやった国家システムのトップたちが、「特攻隊さんありがとう、私達のために戦ってくれて」と言う欺瞞である。 浅羽はイリヤにありがとうとは言えない。変わりに良かったマークを描くのである。それはイリヤへの弔いであり、忘れるための行為である。 食肉業者への感謝(あるいは敬意なのか)、無能なものたちへのベーシック・インカム、敗者に対する自己責任アレゴリー。これらは全て、根底では同じだと言えないだろうか。彼らは全て彼岸にいて、その彼岸にあることを当然であると示すために、弔いと忘却の儀式を施すのだ。 私はあなたたちが悲惨な目に置かれていることを知っているし、それを残念に思う。しかしそれはどうにもできない(できなかった)ことなので、私はあなたたちを弔い、忘れる。 これは差別よりもある意味残酷である。差別なら抵抗することが出来る。しかし、弔われ。忘れ去られた者に抵抗がどうして出来るだろう? では、競争に参加する意欲の無い、あるいは意欲があっても「生産性が低い」人間はどうなるか?確かにベーシック・インカムがあれば最低限の生活は送ることができるかもしれない。しかし、彼ら/我々は社会にとって不用であり、足を引っ張るお荷物として処遇される。 前回のエントリでぼくはこう書いた。確かに社会に住んでいる諸個人の視点からいえば、彼らはお荷物な厄介者とはみなされていないかもしれない。しかし、社会そのものからは既に弔われている。ゆえに暴力をもってその自己主張はなされるのだ。 もう一つ言っておくべきは、弔う/弔われるはけして固定的では無いということだ。社会の様々なレベルで私達は意図せずとも誰かを弔い、あるいは弔われているかもしれない。そして自己責任社会はこれを土台にしてつくられるのである。 トーマス・ハイトという名の物理学者が、友人の医師から、自分の妻ハナが多発性硬化症におかさされていると知らされる。(…)自分が多発性硬化症という不治の病であることを知らされたハナは、トーマスにこう訴える。「私が最期の瞬間まで、あなたのハナでいられるよう助けてちょうだい。(…)そうするのよ、トーマス。私を本当に愛しているなら、そうするのよ。」そしてトーマスはハナに致死薬を与え、ハナは安らかに死ぬ。 (…)トーマスは法廷で次のように訴える。「(…)私のほうこそ告訴します。私は人民に奉仕するという役目を医師と、そして裁判官がまっとうすることを妨げている条文[=自殺幇助を禁じた刑法の条文]を告訴します。だから私は、私のしたことをもみ消そうなどとも思っていません。(…)私は不治の病にあった自分の妻を、彼女の望みによって、その苦しみから解放したのです。私の今の人生は彼女の決定に捧げられています。そして、その決定は妻と同じ運命に会うかもしれないすべての人々にもあてはまるのです。(頭を垂れながら、消え入るような声で)判決をお願いします。」 1939年に開始される安楽死計画を、ナチスは内密に実行していたが、それでも当時のドイツですでに人々に知れわたるところとなり、各方面からの反対のため、政府は1941年にその表向きの中止を宣言する。しかし、ナチス政府は、自分達が実施してきた(また1943年から再開することになる)安楽死計画の必要性を大衆に訴えるためのプロパガンダ映画の製作に着手する。この結果、生まれたのが、この『私は訴える』なのである。 トーマスは「不治の病」に犯されている妻が自ら死を「選択」することを尊重しない、自殺幇助の禁止を「人民に奉仕する役目を」「妨げている」と告訴する。ここで一貫して強調されているのが、安楽死はハナ自身の選択であり、決定であったということである。ナチスは自らの安楽死計画を、それは障害者・病人自身の選択であるとすることで、正当化をしようとしたのであった。 では、競争に参加する意欲の無い、あるいは意欲があっても「生産性が低い」人間はどうなるか?確かにベーシック・インカムがあれば最低限の生活は送ることができるかもしれない。しかし、彼ら/我々は社会にとって不用であり、足を引っ張るお荷物として処遇される。 ここで我々は2005年のパリ暴動を思い起こすべきなのだ。ほらみろヨーロッパだって実際酷い格差社会なのだと日本の保守派は笑っていたが、フランスの生活保護(RMI)は日本のそれと比べ物にならないほど取得しやすく、また日本のワーキングプアに比べてはるかに高い支援を貰える。もちろん移民でも受給できるので、少なくとも彼らは食うや食わずの生活困窮者ではなかったのである。 それは、我々のイデオロギー的・政治的現状について多くを物語っている。選択の自由が保障されていると自画自賛している一方で、強引な民主的コンセンサス以外の選択肢としては、行き当たりばったりの暴動しか残されていない社会に我々は生きているのだ。 (…)したがって、パリ暴動について本当に重要なのは、具体的な社会的・経済的抗議活動ではない。(…)ただ、<可視性>を得るための、直接的な闘争であったのだ。市民としてフランスの一部を構成していながら、政治的・社会的空間から排除されていると実感していた社会集団が、一般国民に対して自らの存在をはっきりと示したかった。皆が望もうが望むまいが、見えないふりをしようが、自分たちはここにいる。コメンテータらが指摘しそびれた決定的事実は、暴動の参加者らが独自の閉鎖的な生活様式を確立しようとする<宗教的・民族的>コミュニティとしての特別な立場を主張しなかったことである。それどころか彼らの主たる前提は、フランス市民であり、そうありたいのだが、認識されていないという点であった。社会のなかで、世間の注目を惹く者とそうでない者とを隔てる壁の向こう側に追いやられたことを自覚したというのが、抗議のメッセージである。彼らは解決策を提示しておらず、解決策をもたらすような運動を構成するわけでもなかった。実は正反対で、彼らの目的は問題を起こすことであり、自分たちが、もはや無視され続けることはできない問題であると知らせることだった。暴力が必要だったのはこのためだ。非暴力的なデモを組織していれば、紙面の下のほうに小さな記事が載るだけに終わっていただろう。 まずは、「責任」という言葉を一端忘れて、「権利」を行使しているのだと考えてみてはどうか。「私はこの会社で働く責任がある」のではなく、「私はこの会社で働く権利を行使している」のだと。それだけで、世の中の見え方がだいぶ変わってくるはず。自己責任ではなく自己権利。「やむなく」でなく「あえて」、「余儀なくされる」のではなくて「踏み切る」。 いやまさにそれこそ、(人質事件以降)一般的に理解されている意味での自己責任ですから!この考え方が身体に染み付いてしまうと、どんな体験談であっても、その人の心を一ミリも動かすことは出来ない。なぜならば、すべての悲劇的な体験談は、「適切なときに適切な判断を行わなかった話」というアレゴリーとしてしか理解されなくなるからだ。転職適齢期に転職しなかった。いびつなシステム(常識!)を見抜けなかった。まさに冬が来ると分っていてもキリギリスさんは遊んでいましたねと説明するような口ぶりで。小飼弾にとってsync_sync氏の体験談は、イソップの「アリとキリギリス」の話と同じくらいの価値しか無い。 「転居の自由」があるから、地域格差がイヤなら都会に引っ越せば良いだって!この人は、ブラジルやフィリピンや、その他世界中の発展途上国で地方から都市に出てきてスラムを形成している人々をどう思っているのだろう。彼らは自己権利を行使した「賢明な」人々なんでしょうかね。 日本の話をしてもいい。商店街がありましたジャスコできました商店街潰れました商店街は努力が足りなかったのだ嫌なら都会出て行け。もっと酷い例もある。この町に米軍基地をつくることが決まりましたよ嫌な人は転居の自由があるので出て行ってね。 自己権利、選択の権利という美しい言葉が覆い隠すのは、まさにこうした、選択する人々とその人々が置かれている環境の、圧倒的な非対称性である。彼らは銃を突きつけられながら契約書にサインをするかどうかの「選択」をしているようなものだ。そして、大多数の人々にはとっさの機転で銃を奪う身体能力も無いし、勘違いするなお前を倒すのは俺だと言って助けに来るシナイダー様もいないのだ。 仕事の選択だって似たようなものだ。労使関係というものが対等だと本気で思っていなければ、この会社で働く権利なんていう寒々しい言葉を吐けるはずが無い。 当たり前である。だって「自己権利の行使」は自己責任神学のアレゴリーの中でしかリアリティを持ち得ないものだから。まあ確かにそれは喜劇に変わる。「あなたが今、辛い思いをしているのは周りに強いられたからじゃなくてあなたの選択のせいなのですよ」と、ロープに吊るされている男の前で言うたぐいの喜劇だが。 このグロテスクな喜劇はどこから生まれるのか。キリギリスが死んだと告げる紙芝居屋は紙芝居の中の世界について語っている。しかし、ジャスコのせいでつぶれる商店街は自己責任だと語る我々はどうか。なぜ我々がジャスコで物を買い商店街で買わなかったかといえば、小飼弾に言わせればジャスコのサービスが良かったからあるいは商店街の品物が高かったからではなく、我々が商店街で買わずジャスコで買うことを選択したからだ。小飼弾がアフィリエイトで儲けたお金をアマゾンのせいで苦しんでいる地方の本屋に寄付しないのかと言えば、それが本屋の自己責任だからではなく子飼弾が寄付をしないことを選択したからだ。 しかるに、あなたが今不幸なのは世間が悪いのではなくあなたの選択なのだと言われたときは、太宰治よろしくこう言わなければいけない。世間とはつまりあなたのことでしょうと。 なんのことは無い。アレゴリー化を必要としているのはまさに小飼弾自身なのだ。あなたは適切な選択をしなかったのが悪いのであって私のせいではない。正確に言えば、私がそのシステムを利用して儲けさせてもらっているところの社会のせいではない。 こうして、世の中の人々の悲惨な体験談は、すべて自己責任神学を保証するためのアレゴリーとして再生産される。どんなに結果が痛烈なものであろうと、むしろそれは歓迎される。酷い結末であればあるほど、教訓にはふさわしいものだ。 |
[ 198] 使えな過ぎて笑う、パワーポイントのクリップアート集:小鳥ピヨピヨ(a cheeping little bird)
[引用サイト] http://coolsummer.typepad.com/kotori/2003/10/post_33.html
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なんでそんな目つきで僕を見るんですか! この人たちと一緒に仕事をする自信が、僕には全然ありません…… 僕は仕事柄よく使います。で、見た目を飾るためにクリップアートを使おうといつも思うのですが、何故か僕のパワーポイントに登録されているクリップアートは強力に使えないものばかりで、いつも困っています。 琵琶法師、ベートーベン、アメコミ……三題噺ですか? これらが出てくるプレゼン資料があったら、ぜひ見てみたいものです。 謝ってないじゃん! ちょっと斜めになっちゃってるだけじゃん! プレゼン資料でこんなの使おうものなら、相手の火に油を注ぐことになること請け合いです。 こんな感じで、いつもクリップアートを開くたびに、「いったい何を使ったらいいんだ」と悩み苦しんでいます。 「パワーポイントにデフォルトで入ってるのは、何かの間違いで登録されたものばかりなんだ。オンラインに行けば、もっと実用的で格好いいやつが、たくさんあるに違いない」と思ったからです。 で、クリップオンラインに行って、適当にファイルをダウンロードして、開いてみると、こんなものが出てきました。 でも……資料はあと30分で作らなくちゃいけないし……時間がなかったので、仕方なくこのクリップアートを使って、無理やり資料を作ってみました。 ……思いのほか個人的に好きな感じになって、びっくりです。大変気に入ったので、このまま役員会議に提出しました。 ときどきパワーポイントの講習会でクリップアートの使い方というのをやります。検索して使うとき一番無難なものを使っています。キーワードを「家」「雪」で検索してもらってそれだけを見てやってもらいます。 他にいろいろなものを見られると、特に新人研修の子たちは楽しくって研修そっちのけでクリップアート探しに没頭してしまうからです。 でも和風なクリップアートすべて使ったプレゼンで笑い以外を取れるなんてすごいですね。私もいつかそんなプレゼンができる人になれるでしょうか・・・心配です。 二番目のクリップアートは、ESPテストの風景で、並んでいる人達はエスパーです(断言)。というわけで、極めて特殊な業界では、使えないこともないのです。 一昨日、パワーポイントの「使えなさ」について論じたエッセイを読み自分のblogで紹介したのですが、ちょうどこちらを読んだばかりだったので、ついついリンクをはらせていただきました。 「こちらを見ている強そうな人たち」は実際に使おうとしてことがあります。「社外アドバイザー」のつもりだったのですが、あとで見直してあまりにも怖い人たちなので外しました。 試しに買ってみた市販のクリップアートも最悪で(車関係の絵が無駄に多い。パッケージには一言もそんなの書いてないのに),結局「鳴かぬなら,鳴かせてみせようホトトギス」の精神で,使えないものを無理やり使ってます。なんか分からないけど場が和むことが多いです。 あのクリップアートを縦横無尽に使いこなすのは、エクセルのマクロを使いこなすより難しいと思ってます。 それはそうと、上に挙げられているクリップアートでも応用の仕方では実はかなり使えるものになるかもしれないと思います。 僕のブログの記事で紹介しているFLASHにパワーポイントのクリップアートがたくさん使われているというだけでトラックバックしてしまいましたが・・・お気に召しませんでしたらすみません! 私、「またこっち見てるよ! しかもさっきの人たちより強そうだよ。」のアートは”インターネットユーザ”として使ったことがあります。150人を前にそれでプレゼンしてしまいました。。。 えらい亀コメですが、「使える」パワーポイントについて真面目に書いているブログ(英語ですが)を見つけました。 でも人に見せるときには、パワーポイントの仕様に従うと便利。それでもVisioの方が好きなタイプですが。 「パワーポイントらしいパワーポイントを作る」セミナーの類ほど、あらゆる可能性を閉ざしてしまうものはなかなか見当たりませんね。しっかり英語読んでみようと思います。 パワーポイントの基本操作を紹介しています。スライドショーやアニメーションの使い方等を紹介しています。 パワーポイントの基本操作を紹介しています。スライドショーやアニメーションの使い方等を紹介しています。ほかにもクリップアートや表、グラフの挿入法やおススメパワーポイントの書籍などの情報が満載です。 「当社の下請けの、そのまた下請け、孫請けという関連で・・」といった説明のシーンでムリヤリ使うというのはいかがでしょうか? 漫画喫茶のバイトを始めてからワードとかエクセルとかパワーポイントとかようやく分かりかけてきている中谷です。とか思ってたら、女の人が泣き笑いながら店に入ってきて、しかもかぁなぁり酔っ払ってる様子で、・・・な、何があったんだろう・・・?あ、ごめんなさい。... >>続きを読む 仕事上で、会社の不条理具合に非常にやるせなさを感じたので 元同僚になんか楽しい事教えてくれとメールしたら、これを教えてくれました。 小鳥さんの 使えな過ぎて笑う、パワーポイントのクリップアート集 仕事で >>続きを読む |
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